北極ルートを開拓したSASの偉業                  寄稿  寺西 英三
  「100年に1度の世界同時不況」とかで、世の中はすっかり意気消沈してしまっていますが、こんな時なればこそ、先人の偉業を思い出して気分を明るくすることが意味を持ってきましょう。
今から52年前の1957年(昭和32年)2月24日にSAS(スカンジナビア航空)が初めて北極
ルート(北回りルート:コペンハーゲン−アンカレッジ−東京)の運行を始めました。「東京−コペンハーゲン間、南回りの52時間を北回りで32時間に」 画期的に短縮したものでした。「当時のプロペラ機(SASはダグラスDC 7 C )でよくもまあ北極海の上を飛んだものだ」と感心します。
 それを開拓したのが何故、英国航空(BA:当時はBOACとBEA)、エールフランス(AF)やオランダのKLMではなくSASだったのか、その辺りの事情をもう一度振り返ってみましょう。
北欧のスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3カ国共同運営によるSASは、当時からその信頼性は高く評価されていたとはいえ、航空会社の規模としては決してBAやAFのように大きいものではありませんでした。

 当時は東京−ヨーロッパ間の航空路は勿論、戦後から始まった南回りで、そのルートは、溯ること更に20年、1937年4月にあの朝日新聞社「神風号」(単発 2人乗り)が東京−台北−ハノイ−ビエンチャン−カルカッタ−カラチ−バスラ−バグダッド−アテネ−ローマ−パリ−ロンドン間:15,357 kmを94時間17分、実飛行時間:51時間19分で飛んで、世界新記録を打ち立てた時のものと、東南アジアの一部を除いてほぼ同じです。考えてみるとそれは英、仏、オランダにとっては旧植民地を結ぶ大切なルートでもありました。多くの植民地が独立したとはいえ、資金的、技術的にはまだまだ旧宗主国との関係は深かった筈です。

戦後12年ほどの当時の日本は「もはや戦後ではない」といわれ始めていたとはいえ、未だ外貨規制が厳しく、勿論、海外観光旅行は全面禁止、ビジネス旅行にも厳しい外貨持ち出し制限がありました。ですから英、仏、オランダ等から見れば、東京は旧植民地の先、少し足を伸ばしたところにある、敗戦国のちょっとした街といったところだったでしょう。彼等の関心が専ら南回りルートにあり、未知の危険を冒してまで東京を短時間で結ぶ北回りルートには、大して関心はなかったとしても不思議ではありません。
その点北欧諸国は南回りルートにこだわる理由はなかっただけに、彼等は北回りルートをそれ自体で評価することができたでしょう。とはいっても、当時の日本は前記のように未だ外貨規制が厳しく、北欧諸国とのビジネス客の往来も極く限られたものだった筈です。何といっても英国全体の在留邦人でさえやっと300人くらいという時代の話で、日本航空も未だロンドンやパリへの路線を開設していなかったのです。

 そんな時代にSASを北回りルートの開拓に駆り立てたのは、一体何だったのでしょう。北極圏に近く、長年に亙って平和目的で、その気象状況の調査研究を進めてきた北欧の国々としては、1つにはやはり彼等が情熱を燃やし続けてきた極地征服の1つの形として、北極を空から見下ろすことがあったのでしょう。しかしそれを売り物にするとしても、北欧−日本間を行き来する乗客だけでは、とても採算は採れないと思います。
その3年前の1954年にSASはコペンハーゲン−ロスアンゼルスの間に、飛行時間の短いポーラールート(北回りルート)を開設しました。当時のコペンハーゲン−東京間最短ルートの持つ意義は、その乗客数では、とてもこのコペンハーゲン−ロスアンゼルス間のそれとは比較にならない筈で、彼等を駆り立てた企業戦略としては、何かもう1つ別の要素があったのだろうと思うのです。

 それは北回りルートの上では地の利のあるコペンハーゲンを乗り継ぎ地として、ヨーロッパの全主要都市と東京との間のお客を、所要時間の短さで掻っさらおうとする戦略だったのでしょう。今でいうハブ空港としての戦略です。南回りと北回りとの約20時間の差は、コペンハーゲンでの乗り継ぎの時間や面倒さを補って余りあります。南回りでも何か所ものストップオーバーがありましたからなおさらのことです。ヨーロッパの主要都市と東京との間では、距離の長い南回りの高価な運賃が距離の短い北回りルートにも適用され、しかもヨーロッパ内の多くの都市との間では、乗り継ぎを入れても同一運賃であったことも大事な点です。未だ格安航空券などなかった時代のことです。その当時、私の友人にもロンドンからの帰りにコペンハーゲンを経由して、北回りルートを利用したのがいたことを思えば、ハブ空港としての狙いは当たっていたといえましょう。

 日本との間の乗客数が次第に増加するとともに、他の航空各社も次々にこの新ルートに参入しました。1960年代に入ってジェット化が進むとともに、ストップオーバーの少ない北回りルートの優位性は一層高まり、世界情勢の変化もあって南回りルートは遂には運行停止となりました。
その後、旧ソ連のアエロフロート社がシベリアルートを開き、1970年3月からは日本航空もこのルートに進出しました。当然、他の航空各社もこれに続き、シベリアの空の規制緩和による便数の増加と約12時間という短い所要時間の圧倒的な優位性から、さしもの北回りルートも次第に意義を失い、遂には運行停止となりました。
しかしシベリアルート開設の呼び水ともなったSASの北回りルート開拓は、現在盛んに論じられているハブ空港戦略さえも含んでいたと考えると、その意義は決して小さいものではなかったでしょう。画期的な戦略を持つトップランナーが現れて価値判断の基準を大きく変化させ、各社がそれに続いて業界の様子が大きく変わる例をここにも見ることができるように思うのです。

 私自身の勝手な推測も含めて色々と書き並べましたが、50数年を経た今日、北欧の人達自身が彼等の先輩の偉業をどのように見ているのか、興味のあるところです。地球温暖化の影響で北極海の夏場の氷原がどんどんと減少し、白熊の生存さえも危ぶまれています。そんな時に北欧の国の幾つかはそれを逆手に取って、北極海を通る東アジアへの夏場の最短航路開拓に虎視耽々としています。こんなところにも、彼等の先輩の偉業が脈々と生きているのではないでしょうか。